Sanctification Gap 15 – 霊性神学 5
今日もー、翻訳。でも眠くて全然進まない。ちょっとずつでも、とりあえず投稿していきます。
(前回は伝道や奉仕といった教会活動と、霊的形成の過程は異なるので、プロセスをごちゃ混ぜにしないこと、ということでした。奉仕の手順は、仕事の手順であり、魂の奥深いところへの旅を共にする過程とは異なる。)
引用:John Coe ”Spiritual Theology: A Theological-Experiential Methodology For Bridging the Sanctification Gap” 7pから。原文を読みたい方は、こちらからダウンロード(英語、有料)。
この論文で扱うテーマ
もし教会と、教会の指導者達の宣教が、愛ときよさに根ざした、霊性神学の土台をに基づいているならば、霊的ギャップに人々が直面した時、彼らを正しく導くことが出来るだろう。霊性神学は有形無形、2つの論理的側面から理解することが出来る。
初めに、霊性神学は、人々の実生活に霊性と生き方に神学を適応させるための広く一般的な理論、又は概念だと理解されている。少なくとも、霊性神学は、実際生活のに影響を与え、霊的な成長が伴うものでなければならない。
大事なことではあるものの、正確な翻訳や、研究に焦点を当てた指導のために、実生活への適応が伴わない霊的訓練が広まり、聖書の真理を実生活の中で、具体的に生きるための洞察は蔑ろにされてきた。
しかし、神学を実生活へ適応させることは、単なる仕事ではなく、キリストの教えの究極的な目的である。
「霊性神学は、実際生活のに影響を与え、霊的な成長が伴うものでなければならない。」
霊性神学は新約学でも、旧約学でもありません。組織神学でもないし、歴史神学でもない、釈義でもありません。
実際生活の中で、神学の適応を考える、実践神学の一つと言えるかも知れません。
霊性神学は、中身が伴ったクリスチャンを整えるための神学です。神が私達に望んでいることは、外側の割礼ではなく、内側、心の割礼。知恵は大事ではありますが、知恵の多さは、信仰に比例しているわけではありません。律法学者が、神の教えを蔑ろにしている、とキリストから糾弾されたように(マルコ7:8-9)。
大事なことは、実際生活の中で神に似たものに変えられていくことです。
それは、神の愛を、隣人との関係の中に反映させていくことです。
だからこそ、霊性神学の目標は、キリストの教えの究極の目的であると、言っているのだと思われます。
奉仕によって、教会活動によって、弟子化訓練によって、私たちの霊性は深められていくのではない。
ならば、どの道であるのか。
それを説明していくのが、これからの、Coe論文の内容です。