置かれた場所で咲かなくていいです-カルト教会からは早く逃げて下さい。
有名ブロガーのイケダハヤトさんの記事は、面白いのでちょくちょく読ませて頂いているのですが、この前面白いフレーズを見つけました。
http://www.ikedahayato.com/20160506/59491143.html
新刊『「置かれた場所で咲こう」と努力すると、最悪自殺します。』
面白い(笑)。
どのような内容なのかということは、以下の記事の方を御覧ください。
http://www.ikedahayato.com/20151026/42988045.html
『置かれた場所で咲きなさい』というのは、クリスチャン畑では有名なこの本。
http://amzn.to/2kXBEFW
宗教関連の本では、珍しくベストセラーになったという。私はこちらの本は読みましたが、イケダハヤトさんの本は読んでません。198円らしいので読もうかな。
逆に、記事の内容からして、イケダハヤトさんが、『置かれた場所で咲きなさい』を読まれたのか分かりません。
『置かれた場所で咲きなさい』は、かなり、信仰の理解が土台にあるので、一般の方が読んで、もしかしたら理解し難いところがあるかもしれません。私もかなり前に読んだので、内容はうろ覚えです。
この本が出た前後、私はブラック教会で働いおり、教団からも教会からも脱走計画進行中だったので、「すみません」とか思いました。
でも、『置かれた場所で咲きなさい』が伝えていることも、とても理解できます。
私が扱っているのは、教会でのトラブルなので、この分野に限って言うと、私の意見は、
置かれた教会で咲く(居続ける)必要はないです。良い牧場を探して、早く危険なところから逃げて下さい。です。
理由は
『「置かれた場所で咲こう」と努力すると、最悪自殺。』
するからです。イケダハヤトさんの本のセールスみたい。
でも、本当にそうだからです。教会にいると、特に牧師の立場でいると、教会で表にはされない出来事を知ることがあります。
教会のトラブルで自死する教会役員や、信徒さんがいます。
私が知っている範囲でも、性的虐待、会計問題、牧師、教会からの精神的、社会的嫌がらせによって亡くなった方がいます。
家族がどれだけ悲しみ、苦しんだか、想像を絶します。
教会でトラブルに遭っている人からよく相談されることは、「教会を出ようかと思っているんです。」ということです。
もしくは、相談を聞く内に、結論として「その教会に居続けるしか無いのか?」ということです。
実際には、どんなにトラブルがあっても、その教会に居続ける人が多いです。
牧師先生が変わってくれるかもしれない。
私が教会にいて、教会のために与えれている使命があるのかもしれない。
家族が通っているから、親しい人たちと別れたくないから
牧師先生に何と言っていいか…
教会でトラブルを起こすくらいなら、我慢が必要だけど、このまま忍耐する…
説教の時間に目をつぶって寝ていればいいのだから…
私のほうが先に教会にいるのに、なぜ私が出ていかなければならないのか、
等々の理由があります。
また、実際に日本の教会では、教会自体の数が少ないし、実際に出ても、出た先で似たようなトラブルに遭ったり、地域の教会だと、牧師同士で既にネットワークがあって、「あの人は問題を起して、教会を出たのだ、気をつけた方がいい」というようなことを、元いた教会の牧師が、移った先の教会に言うこともあります。
牧師によっては、やっとの思いで教会を移ったとしても、牧師間の関係性を重視して、元の教会に戻るように、また元の教会で頑張るように言う人もいます。
そして、カルト的な問題を起こす教会、そのような教会を作り出す牧師というのは、メンバーが他の教会に行くことを嫌がりますので、教会を移るということが罪か、悪であるかのような言い方をします。
他の教会の人達は異端である、危険である、
私達の教会だけが選ばれている、正統的な教会(再臨の時に選ばれる教会)である、
しっかりとした信仰を持っている人は、自分の欲望のままに教会を渡り歩かない(チャーチショッピングしない)
教会に仕えることが、神に仕えることであるから、そこを離れるなんて不信仰である
というようなことを言います。
色々まっとうな理由をつけようとしますが、根底にあるのは教会員を減らしたくないという理由だったりします。
他の教会に行ったら、そちらに行ってしまうかもしれないと思って、人の自由を制限しようとするのは、自信がない牧師がやることです。
本当に相手のことを考え、教会を神に委ね、深い自信がある牧師は、教会員を束縛するようなことはしません。
そんな牧師さんも、必ずいます。
危険だと思われる教会からは、早く逃げて下さい。
忍耐は美徳ですが、長年に渡る精神的、霊的ストレスは、魂の健全な成長を妨げます。
また、クリスチャンが、それでも問題のある教会に留まってしまうのは、信仰上の理由があります。
教会に留まることが、神から与えられた試練、訓練ではないか、そのチャレンジを放棄して「逃げて」いいのか、という考え方です。これについて、別の記事で書いてみます。
⇒予定:「逃げる」のではない、「賢く」なるのだ