どうして劣悪な環境下であるにも関わらず、教会を訴えなかったか。

以前のサイトでも同様だったのですが、宗教者の労働条件についての閲覧が多いので、自分なりのその後のことを書いてみたいと思います。あのシリーズは、問題のある教会を去った後には殆ど続きを書いていないのです。

今日は、どうして劣悪な環境下であるにも関わらず、雇用主(教団、教会)を訴えなかったか、書きます。

それはもちろん、トラブルになるのが嫌だったからです。きっと、宗教関係労働者だけでなく、一般の職業の皆様でも一緒だと思います。宗教関係者は、労働者ではないという考え方も、問題を捉えにくい背景にあるでしょう。

私も、未だに宗教関係者に対し労働者という言葉を使っていいのか分からないですし、民法や労働基準法や、はては刑法で教会の問題を解決しようという考え方が、信仰的に適切な解決方法であるのか分かりません。

ただ、宗教組織自体に自ら問題を解決する機能がないし、解決するよりもむしろ、問題を無かったことにする傾向のほうが強いです。例え訴えを起こしても、運営組織から返ってくるのは、問題をその人個人の受け止め方のせいであるとか、その人に落ち度があったからだとする回答です(勿論そんなところばかりではないと思いますが)。

宗教組織に対し有効的に問題の解決を求める方法があるとすれば、究極的には法的拘束力がある手段を使うのが、現時点では考えられうる最も効力のある方法だと考えられます。

ただ、私も僅かに知る限りですが、通常教団・教会に対し問題解決を求める場合、どうやらいきなり司法手段に訴えるということは無いようです。その前に、その教団なりに対して、外部の専門家や団体などから勧告が入ります。

それでも改善がない場合、またそんなレベルではない場合(警察沙汰、性的・身体的暴行)は即座に通報しましょう。


私は以前の問題のある教会で働いているときは、そもそもどのように解決すればよいか自体が分かりませんでした。

長年に渡り形成された思考回路、閉ざされた環境、信仰の受け止め方、限られた人間関係、余裕のない経済状況と、強いストレス環境下では、助けを求める、解決に向かって動き出す事自体が大変なことなのです。

当時、私は進学のための受験勉強の準備などもあり、解決するかわからない事で精神的ストレスを受けたくありませんでした。それで、目立つようなことはしませんでした。

今振り返り、もしもあのまま劣悪な環境下で働かなければならない状況であった場合、どうしたかなと考えることがあります。


今であれば、まず働き始めた時点で、全ての労働条件の記録を始めます。

まずは、証拠集めから。給与明細などは、源泉徴収から分かります。休みがないなどのことを、記録として残すために、メールや文書などで、質問し、返ってきた回答を残す。話し合いであれば音声記録もしっかり取ります(私は話し合いの時はレコーダーを持ち歩いてました(秘密録音(無断録音)の証拠能力について))。総会資料も保存します。

白い目で見られて働きにくくなることは明確ですが、働き続ける意図はないので気にしない。

そして、早めに外部の専門家の人を見つけて相談。
同時に運営メンバーの人にも相談を入れます。

この時、教団内で正式な訴えをするためにはどのようにすればよいか、書面で手続きを尋ねます。
これは、私が教団を離れてから教えてもらったことですが、後々法的手段を取る場合、正式な手続きを取っていないので無効だ、等言われることがあるので、事前に正式なやり方を聞き、証拠を残すためです(この様なやり取りは、専門家が詳しいので、専門の人に聞いて下さい)。

教団条例など、書式できちんと定められたものがある場合、その手順に従って手続きをすすめる。このような教団条例は、民事上の拘束力をもつものになる。

労働環境の証拠が集まったところで、雇用主に相当する部署(教会・教団)に環境改善を求める(効果がないと思いますが、これもやれることはやりましたという、証拠作りです)。
この時に、必要とあれば所定の部署、第三者に介入してもらいたい、と話します(真面目に受け止めてもらうためです。そして、余計な待ち時間が出ないように)。教団内に問題解決のための部署があれば、そこに訴えを出します(これも、後々のことを考えての証拠作り)。

信仰の問題であるとか、自分のパーソナリティの問題であれば、第三者が入ることによって客観的に教えてくれるでしょう。
第三者は教団外からも探しておきます(カルト対策関係者の方、労働基準局、警察等)。

望むべき結果は、別の教会へ移動。辞めざるを得ない場合は、働いた分の給与はきちんともらいます(違法な拘束時間の分の)。


望んだ結果が出ずに徒労になる結果もあるでしょう。

しかし、何かアクションを起こしたことにより、問題があることを明らかにすることが出来ます。自分が間違っているならば、自分がその結果を引き受けるだけですし、自分の訴えが正しければ、新たな被害や、犠牲者が増えることを防ぐことが出来ます。

即ち、長々と書きましたが、私がもしもそのまま、問題のある教会で働き続けていたとしたら、徹底的にやれる手段の全てを尽くしたであろうということです(その方がえらい騒ぎを起こしていたかもしれません)。

結果として自分はそうしませんでしたが、これからの人の魂の安全と、被害を防ぐため、様々なレベルの対策方法を、勉強・模索しています。

以上のシュミレーションは、私であれば、の場合です。信仰的にとか、どう考えてよいか分からない方は、専門の方々がおりますので、色々な人の意見を聞いてみるのが良いと思われます。私で良ければ、出来る限り助力いたしますので、何でもご連絡下さい。私自身も、もっと、自分なりの信仰面からの考え方をもっと整理してみたいと思います。

教団以外の第三者は、とてもおすすめの方法です。

そのうち実際に教会運営の研究をしている先生のクラスも取ることが出来るので、アメリカの教会関係者の雇用環境、対処の仕方や考え方なども調べていこうと思っています。