霊的形成のクラス(2017 Spring) 2:家族について

1月30日から、2017年春のセメスターが始まりました。
TALBOTの霊的形成のクラスは3セメスター(3学期)に渡ります。私にとっては第2セメスター目のスピリチュアル・フォーメーションです。
思わぬトピックから授業が始まりました。家族についてです。

教授が「家族とは、どんなものなのか、少し周りの人と話してみて」と言った時に、ポジティブなイメージがなにも沸きませんでした。

「あなたが高校生の時に、家族はどんなでしたか。」と言われても、余り何も思い出せません。
母親が家事を全然しないので、お弁当を自分で用意していたのと、何だかとてもひもじかったことを覚えています。
私や弟という、子どもという人間が生きている、食べる必要がある、清潔な環境で安心して生活する必要がある、心を持っている存在だと思っていないような扱いでした。

「今から紙を配りますから、自分の家族に当てはまる所にチェックを入れて」、と言われて配られたプリントがこちら。

日本語訳は以下。


The family grew up in was … (私が育った家庭は)

Peaceful (平和)
Loving (愛情に満ちている)
Devoted to each other (お互いに献身的である)
Honoring to each other (お互いに敬意を払っている)
Harmonious (調和が取れている)
Non-judgmental (裁き合わない)
Accepting (受け入れ合っている)
A place of learning (学ぶ場である)
Welcoming (開放的である)
A place of mutual Service (相互に仕え合っている)
An environment where family members carried each other’s cares and concerns (お互いのことを心配し、配慮し合っている関係)
A patient, long-suffering environment (忍耐と、互いを受容し合う環境)
Kind and Compassionate (優しい、共感する)
Forgiving (許し)
A place where people spoke to each other of Spiritual things (お互いの霊的な事柄について話すことが出来る)
An environment of mutual submission (互いに服従している)
An environment where everyone was valued (お互いの価値を認めている)
A place of instruction (指導の場)
A place of admonishment (正しく訓戒する場)
Encouraging (励まし)
An environment where members built each other up (家族がお互いを高め合うような場)
A place where love and good deeds were promoted (愛と善い行いを実践する場)
A place where truth and goodness was spoken of each other (VS. slander… damaging falsehood) (真実と、キリストが示した生き方を実践する場)
NOT a place of grumbling and complaining about others (反抗したり、不平不満を言う場ではない)
An environment where you could safely share your short-comings (安心して、自分の欠点を共有出来る場)
A place where you were prayed for (祈り合える場)
A place marked by humility (謙遜さによって作られている場所)

*もう一つの紙に書かれているのは、上の家庭の特徴の聖書的根拠です。どこの聖句を元にしているのかが書かれています。


一個もチェックがつけられませんでした。
自信を持って言えることは、自分の家庭は真逆の特徴ばかりだということ。

教授が聞いた。
「27個すべてに丸がついた人、いる?」

一人だけ、近くの学生が手を上げた。いいなぁ、と思った。

教授は言った。「さっき、理想的な家族について聞いたけど、実際はここにチェックをつけるのは、難しい人が多かったんじゃないかしら。ここに全てチェックが付けられる完璧な家族というものは、無いのよ。」


先セメスターの霊的形成の授業の後半から、自分自身の根底にある、魂の割れ目に気が付き始めました。
振り返ると、確か去年も、自分で色々考えた時に、気がついていた点ではあったのだが、どうすることも出来ずに今に至ります。

スピリチュアル・ディレクターの質問で明らかになりましたが、自分は大きなストレスがかかった時に、幼少期の自己防衛と同じ手段を取るということが分かりました。

なぜ今頃これに向き合わないといけないか分からないので、授業で家族とは何かについて、取り組んでいく、と言われた時に、憂鬱な気持ちになりました。

ビート板を持たされて、滝壺の縁に並ばされたような。また、こんなひどいトレーニングに突き落とされるのか、と。

それは、確かに、解決したほうがいいような気はするのだけれども、寝た子は起こさなくてもいいんじゃないかと思ったりする。それに、取り組んだところで、どんな解決があるというのだろう。分からないまま終わるという可能性のほうがありそうだ。
心理学と何かつながっているのだろうか。いや、むしろ心理学寄りすぎるんじゃないか、などとも思います。


とか、なんとか思いながら、このクラスが一体どんな風に進み、自分がどんな風に変化していくのか、記録していきます。

不思議なことに、先日どうしてだか家族や、昔に関わる話を全く別の人と、話しました。
映画を見に行ったが、その時にお昼ごはんを一緒に食べた人と、家庭環境の話になったのです。
その方のご家庭も、聞くだに相当物凄い状況でした。

話の途中で、その方に質問されました。

「どんな時に、昔のことが、今に影響していると思う?」

その時すぐに答えられませんでしたが、何か考えた記憶があります。後でよくよく、記憶の感触を辿ってみると、「不安」でした。
私は不安や恐怖感に弱い。

元気で、精神的にも力がある時なら、色々な面が弱さをカバーするのですが、追い詰められると弱さが出てくる。

以前リトリートの記事で書きましたが、大阪で自由のない、閉じ込められた環境が、小さい頃の逃げられなかったアルコール家庭の無力感を思い出させました。

私は20歳を越えてから、注射で2回意識不明になって、1回はそのまま数日入院しています。アナフィラキシーショック、と言われましたが、医師からは恐らく極度に不安になって、意識がなくなったのかも知れない、と言われています。

共通点は、逃げられないと、一遍に不安が高まること。
意識を失うレベルというのは、自分でもちょっと深刻だと思いますが、どうすればいいのか分かりません。

私は家庭で受け止めてもらったということがありません。長崎で、クリスチャンのご夫妻にはそれをしてもらったので、すっかり良くなったと思っていましたが、心の底に存在する亀裂は深いのかもしれません。

家庭は、受け止めるとか何か、そういうこと以前に、危険で、早く逃げ出さなければいけないところでした。

不安感から逃げられないとなると、一遍にあらぬ方向へと逃げ出していくようです。
理性もなにも、社会性も常識も吹き飛ばして、安全なところへと…。

それが、大阪でストレスがいっぺんにかかった時と、その後の霊的な状態でした。
後先考えずに、神様から与えられたものも、何もかも放棄して、どこかに飛び出してしまいます。


リトリートの後から、時々神様がつぶやきかけてくることがあります。

「お前がいなくなった時に、どれだけ悲しんだか、分かる?」という問いかけ。

分かろうとするのだけれども、どうしても分からない。
それで「分かりません」と言うと、ため息を付いて、うなだれて帰っていく…。