花束 ーライオンさんの記念碑 33
大分とんでもない回復過程を通った。
こういう過程は、スピリチュアル・フォーメーションを学んでから、通るようになった。
元々私は、沈黙、黙想という霊的手段をよく取っていた。
それは、神学生の時から…こちらに来て、霊的形成の手段を勉強して、すごく一致している部分に驚いた。
朝と夜の祈りの時間の時、私の祈りは、大抵、黙っていた。
寝起きだから、頭が働かないというのもあるし、体力がないので、椅子に座って、そのまま読んだ聖句を考えるだけというのが、そういうスタイルになった理由。
そしてそのうち、問題が大きくなったり複雑化してくると、ただ「憐れんで下さい、私を憐れんで下さい。」と祈るようになった。
これらのことは、スピリチュアル・フォーメーションのやり方と一致していたことが、後で分かるようになった。
前回、「怒りの化物」の大騒ぎは、大分省略してあれなのだが、実際に原因を見つけるまですごく時間がかかった。原因が段々特定されてからも、4,5日かかった。繰り返し、繰り返し、祈って集中して、あんな調子。
前のときは、こちらに来たばかりのリトリートの時で、あの時は完全にスピリチュアル・ディレクター(霊的形成のカウンセラーの専門家)についてもらった。
今度は、自分でもがきながら取り組んでみた。
今回分かったことがある。どうして、今度は自分で取り組むことが出来たのか。
それは、聖霊の助けがあったからだ。
教授の言葉を思い出す。
「この心の旅路を、心の深い底から信仰へ向かう旅路を、共に出来る人」。
前回の話では見えにくかった、神さまの働きの断片を記してみる。
まず、閉じこもっていた感情、怒りだが、この怒りをまともに受けたら、身がもたない。
時々…理性が吹き飛んで、自暴自棄になりそうになったことがあった。
罪の意識で信仰は逃げ出して、感情は閉じこもって、それでも何とか動いていたのは、理性が残っていたからだ。
この「怒り」は理性を吹き飛ばす。理性が吹き飛ばされたらブレーキがない。
それで、まずい選択をしそうになったことが何回もある。
実際にはもう散々な状況も引き起こしている。
怒りのままに動くから、周りを傷つける。
だから、近づくことが出来ないのだが、今回その怒りを盾になって受けて進んでくれたのが、自分ではなかった。何か、聖霊だった。
断片的に、やり取りがのこっている。
嫌な者が入ってきたので、殺してやろうと思った。
そしたら、キリストだった。後ろに何人か隠れてる。
「怒りをぶつけてみなさい」
と言うので、「そんなこと出来ない」と言った。
神さまに怒りなんてぶつけても、罪責感が増すだけだ。
「じゃ…分かった、今からお前の前に代わりのものを投げるから。」
と言う。それで、白いカカシのようなものを目の前に投げた。
何かわからないが、イライラする対象であることはすごく分かった。
すぐにぼろぼろになる、もろい何かを、不機嫌に任せて一生懸命切り裂いた。
綿が詰まったぬいぐるみみたいに、それはすぐに散り散りに切り裂けた。
一生懸命やるついでに、疲れてきて、キリストを殴った。
「あっ」と思ったが遅かった。
その日の夜に、夢を見た。
小さな花束をキリストの足元に置く夢だった。
花束を置くと、そそくさと帰って行った。
「すみませんでした」と呟いていて、どうやら誤って殴ったことを反省していますと伝えたかったみたい。
翌日、誰かがやってきて、自分の足元に花束を置いた。
自分が夢の中でキリストの足元においた小さな花束だった。
返しに来たのか、悲しみすらも感じられない、そうされて当たり前だ、と自虐的な気持ちで、自分を蔑んだ。
その日も切り裂き続けていた。
一体、これが何なのか、白い花びらのように切れ切れになっては地面に散らばる何かの中で、そうするしかない怒りをぶつけ続けた。
暴れまわり、疲れ果てたところで、自分を捕まえに来てた誰かに、思い切り投げられて、床に組み伏せられた。
「お前くらい、殺してやるぐらいの力はあるんだからな!!!!!!!!!!!!」
と振り払おうとしたら、組み伏せられた状態で、目線のすぐ向こうに転がっている花束が目に入った。その横に足が見えて、声がした。
「これは、お前のだ。お前はわたしに価値を見ていたが、わたしはお前に価値を見た。」
「(受け取らないだろうから、置いといた。価値はわたしから与えるものだからな。)」ということらしい。
切り裂いた何かが花びらみたいに散り散りになって、自分の周りに散れていた。
その薄い花びらのような破片の一枚一枚が淡い色に透けて輝いて、その中に何かが見えた。
ライオンさんや、Iさん(ライオンさんの奥さん)と過ごした、楽しかった思い出の一つ一つだった。
生きていると実感した出来事の一つ一つだった。生きていたという実感の中で、思い出の一枚一枚に透けて見える記憶の中で、涙が滲んだ。
「私は、違うんだ、そんなんじゃないんだ
私は、価値があるの
やめて、思い出させないで
そんなんじゃないんだ。」
切って切っても増えるばっかりで、全然消えなかった。
神さまは、思い出を私の前に投げていた。いくつもいくつも。
「ほら切れ。まだあるぞ。」って。がむしゃらに、犬みたいに、そのなにかイライラするものに対して怒りをぶつけた結果がこれだったとは。
「私がかかわらないといけない理由なんて分からない。
私がそんなことしなくたっていい、どうして私のことが理解される必要があるんだ、
ほっといてくれほっといてくれほっといてくれ!!」
とジタバタしていたら、
「君がいなくなったら、みんな止まってしまった。
なにもかも、うまくいかなくなった。それは、一体、どういうことなんだろう…。」と言われた。
否定できない、消すことが出来ない、価値が自分にあったことをまざまざと思い出した。
力の源だった怒りが消えてしまった。
残ったのは、燃えカスみたいにおとなしくなった感情だけだった。
と、こういう感じになったのですが、問題解決の先導をきってくれたのが聖霊でした。
自分で制御できる範囲まで、暴走している感情の力を落としてくれたのも聖霊でした。
何だか不思議な出来事ですが、魂の肝心なところの扱いは、この様な感じです。