生きているという感触 -ライオンさんの記念碑 34
今日は授業の課題で、研修会に出てきた。
研修会に向かう車の中では、
「ねぇ、今日の研修会、何についてなのか知ってる?」
「何だっけ?ヘレン?」
「…何だろう、知らない。」
「みんな追加点が欲しいだけだろ。」(研修会に出ると、授業評価の追加点がもらえる)
という有様だったが、到着してみると、悲しむ人に対する牧会カウンセリングについての研修会だった。
離婚、家族の事故死、配偶者の死、病気、病死、家庭内暴力、自殺…悲しみの原因は多岐にわたる。
“Grieving is Natural” 「悲しむことは自然なこと」、
“Not Grieving is Unnatural” 「悲しみがないことは不自然なこと」
からセッションは始まった。このワークショップ、研修会についても、近いうちに記事を書いてみたい。
印象的な話があったので、一つだけ紹介したい。
ある一人の母親が、息子さんを9つか10つかで亡くした。
町でとても有名な家族だったので、沢山の人が彼女を励ましに来た。
泣いて、話して、慰めて…葬儀は終わった。
それから9ヶ月後、その女性は急に人から視線をそらすようになった。
亡くした息子のことを全く話さなくなり、まるでその子どもが居なかったかのように、振る舞うようになった。
教会にもあまり参加せず、人との付き合いをしなくなった。
ある日、ショッピングモールで、その亡くした子供と一番の友人だった子供と会った。
彼女は目を逸らして、すぐに反対方向へと歩いていったが、その友人だった子供は彼女の前に来て、こう言った。
「ねぇ、僕は、◯◯(亡くなった子供)に会いたいよ。僕はとても寂しい。」
それから2時間、ショッピングモールのベンチに座って、亡くした子供についての思い出を、その子供の友人と語り合った。
それ以来、その女性は再び息子のことを話し始め、教会にも再び繋がるようになった…。
というものである。
この女性は、そのベンチでの出来事の後から、今日参加していた研修会が主催しているカウンセリングの活動に参加してきた、ということだ。
そう、不思議な事だが、大きな衝撃を受ける出来事の直後は、なんというのか唖然としている。
悲しみを感じる暇がない。死別が突然であればあるほど。
死別からしばらくして、居心地の悪い変化が起き始める。
脳は一遍に色んなことを考えていて、理性はその先が変な結論にたどり着かないように、先回りして思っていることを隠そうとする。感情は一番正直だから、そう、これが時間が経ってから頭をもたげてくる、鍋の中の恐ろしいエネルギーなのだが、出る先が分からなくて、籠城する。そうして、怒りを表している。
本人は、煮えたぎっている感情を爆発させたくないので、問題から目を逸らそうとするのだが、
本当は、蓋をしている問題に向き合うことだ。
でも…この向き合うことがすごく難しい。問題が把握できないままだと、また、下手に触ると、余計に苦しみを増す結果になる。
ものすごく、敏感になっている人が、一番痛いところを共有してくれる、安心できる心理的空間を作り出すこと、それが牧会カウンセリングで必要とされる技術である。
大阪を終え、教団を出てから、不思議な感触があった。
床に落ちているものを、拾おうとするのだけど、拾えない。自分が透明なのか、それとも対象物が透明なのか分からないのだが、見えているのに触れないのである。
ちょうど、映画などで見る、幽霊が物に触れなくてびっくりする、あんな感触である。もうかれこれ、振り返れば2年以上も、そんな感じだった。
それが、この前の事(「怒りの化物」「花束」)から、少しずつ感触が戻ってきた。触れいているという感触が。
生きているということは、痛むことであり、悲しむことでもあり、そういう感情は悪いものではなかった。
私は小さな時からそれを必死に否定しようとしてきたけれど、
こんなに、痛むということが、生きていることを実感するために必要なことだと、思わなかった。
私の机の横にはライオンさんとIさんの写真が飾ってある。
タバコを手にしているライオンさんとIさんが笑顔でこちらを見ている写真。
私が喜ぶように、と植えてくれたチューリップが咲いている。
今日、いつの間にか立ち尽くして、じっとその写真を見ていた。
…………….
ライオンさんと、Iさんの写真を見て、ふと笑顔になった。
ライオンさんの顔を見て、あの日から初めて、笑うことが出来た。