信仰において「弱さ」をどのように考えるか:ブレネー・ブラウン、無防備さについての講演から
牧会ケアとカウンセリングの授業で、「無防備さ」についてのビデオを見ました。
ブレネー・ブラウンという「恥」についての研究者の公演です。
有難いことに、日本語字幕版がありますので、ぜひ視聴してください!
⇒ブレネー・ブラウンの公演、TED講演から(字幕付き)
vulnerability[v`ʌln(ə)rəbíləṭi]という言葉があります。
意味は、傷つきやすいこと、弱み、脆弱性、無防備さなどの意味があります。
動画ではこのvulnerabilityがキーワードになっており、”無防備さ”と訳されています。
ニュアンスとしてや”脆弱性”のほうが良いような気がするのですが、”無防備さ”も”脆弱性”もあまり使わない言葉かなと思います。
単純に”弱さ”として、考えると、分かりやすいかもしれません。
アメリカに来て、霊的形成、そして牧会カウンセリングの授業を受け、大学の活動の中から感じる霊的な雰囲気から、一定の方向性を感じます。
思ってもみなかったことですが、それは「弱さへの招き」という方向性です。
授業も、研修も、学生生活も、自分の弱さに向き合こと、そして他者の痛みを聞き出すことができる空間をいかに空けることができるか、ということの訓練です。
自分の心をオープンにすることであり、それは傷みやすい自分の心を相手に対して開くということです。
神に似せられていくということは、自分自身をよく知ることであり、自分の心の底に眠る痛みを知るということであり、自分をケアできること。
人をケアするということは、相手の苦しみと痛みをよく理解することであり、自分の痛みを通して、人の癒しの過程を学ぶということです。
完全な者になっていくことではなく、完全ではない自分に気が付いていくことです。
自分の脆弱性を認め、自分の弱さの中に働く神の恵みを体験していくこと。そのような体験を手助けするところ、そのような経験の指導をするところが、神学校であると。
アダムとイブが創世記で裸であったが、恥ずかしいと思わなかった。
傷つきやすさ、弱さ、脆弱性を隠すことなく、神の前に生きることができていたということが、神と人との関係であったと。
神だけではなく、人と人との間もそうです。アダムとイブもお互いに、互いにありのままで、なにも隠さず、脆弱性を露わに、恥じることはなかったと。
牧会ケア、カウンセリングは、相談者自身の認識、行動の歪み、人間関係、社会生活を破壊してしまうパターンがどこから来ているのか、どこに不安や、自己防衛が働いているのか、話しながら気づいていく過程です。
回復していく、元気になっていく、霊的に変えられていくというのは、自分の脆弱性、弱さにしっかりと向き合うところから始まります。
しかし一人では、自分の魂を回復させていく手掛かり、道筋、姿勢を整えることが難しいため、牧者や、牧会カウンセラーがサポートします。
しかし、ご存知のように、難しいのは自分の弱さ、vulnerabilityを受け入れることです。
なぜなら、脆弱性や弱さは、悪いこと、あってはならないこと、すぐに解消されるべきことだと考えられるているからです。
自然界で弱いと死にます。人間界で弱いといじめられます。社会で弱いと、競争に負けて、底辺の人間とみなされます。
信仰が弱いと、不信仰な人間、信仰ができていない者、信仰の落伍者と言われます。
社会の価値観は、信仰にも重ねられており、迷わないもの、落ち込まないもの、豊かなもの、反映しているものが、神の祝福を受けている、と考えます。
失敗、挫折、離婚、破産、疑い、怒り、それらのことは、その人の信仰の欠落を示唆する、神の裁きであると。
しかし実際には、歪みや欠けのない人間など、どこにもいません。
単に、自分が今日、何のトラブルにもあっていないのは、神の恵みがあるからであり、
誰かのように苦しんでいないのは、その人が必要な通るべき霊的修練の段階にまだ来ていないからかも知れないのです。
だから、誰かを指して、あの人の信仰はできていない、などと言えないのです。
ブレネー・ブラウンの講義は、この脆弱さ、弱さを私たちがどのようにとらえ、受け止めていくのかという視点に大きな転換を与えてくれます。
ブレネー・ブラウンの講義の一部分を抜粋します。
「”無防備さ”は弱さではないということです。
“無防備さ”が弱さだという思い込みは、非常に危険なものです。…私は”無防備さ”を感情面のリスク、傷つく可能性、不確実さであると定義します。…
“無防備さ”は勇気を示す、最も正確な指標なのです。
“無防備”に自分をさらけ出し、正直であるという勇気です。…“無防備さ”からこそイノベーション、創造性、変革は生まれるのです。
創造というのは、これまでに存在していない何かを作るということです。
これ以上に”無防備”なことはありません。
変化に適応できるというのは、”無防備”になれるということです。…研究し始めの4年間は、男性を対象にしていませんでした。
本のサイン会で男性がこう言うまでは。
「恥についてのお話、大変興味深いです。でも男性の場合がないのはどうしてです?」
私が「男性は研究していないんです」と言うと彼は、「それは助かります」と言いました。
私が「どうして?」と言うと、彼は「だって、あなたはこの本で手を差し伸べて、自分のこと話し、弱さを見せ”無防備”になれと言うわけでしょう?」…「家族は私が英雄のように戦って死ぬほうが、落馬して生きているよりもいいと思っていますよ。もし、救いを求めて弱いところを見せたりしたら、叩きのめされます。
男やコーチや父親に、弱さを見せろなんてことは書かないようにしてくださいよ。
私の人生で、妻や娘ほど厳しい人間はいないのですから。」恥は私たちの文化に蔓延しています。
この取り巻かれた状態から逃れて、支えあえるようになるためには、恥が私たちにどう影響するのか、私たちの子育てのやり方にどう影響するのか、私たちの働き方や、お互いを見る見方にどう影響するのか、理解する必要があります。もし支え合う方法を見つけようとするなら、共感を理解し、どう共感を示すか知らなければなりません。共感は恥への解毒剤だからです。
シャーレに入れた恥が爆発的に増殖するには3つのものが必要です。秘密、沈黙、判定(作成者注:動画ではJudgement、批判、裁き)です。
同じ量の恥をシャーレに入れ、共感に浸したなら、恥は増殖できず、生き残れません。
苦しんでいる時に最も強力な言葉は、「私もそう」という言葉です。」
参照:ブレネー・ブラウン「恥について考えましょう」2012年5月、TED講演より(URL:https://www.ted.com/talks/brene_brown_listening_to_shame?language=ja)アクセス日時2017年3月26日
牧師たちが、クリスチャンのリーダーたちが、クリスチャンがもっと他者に寛容になることが出来たら、弱さに対する理解を深めることが出来たら、日本人の霊性はもっと豊かになると思います。
弱さに豊かになっていくとは、弱さに対する考え方を変えることであり、指導者たちが弱さに立ち止まる勇気を持つことであり、自らの弱さを見つめることです。
ブレネー・ブラウンの本は、日本語にも訳されているようです。リンク張っておきます。