霊的形成のクラス 10 – 生きる事への否定
何日もかかって、いろんな角度から色々なことを思い出そうとした。
でも、今一つ手掛かりがつかめなかった。
悪いことに、再び精神状態だけが悪化した。気力が無くなり、日常生活のことに取り組めなくなった。信仰を持つ前はこうだった。
朝方、何かを断片的に思い出すことがあった。急いで記録し、後で見返してみると「生きる事への否定」と書いてあった。これは一体?
記憶にある、母から言われた一番古い言葉は「あんたなんか、いらない」。
いつも車の助手席で母の愚痴を聞かせられていた。私は何も言わなかった。何か言うと、あんたは何もわかっていない、世間も知らないくせに、生意気を言うな、世の中は厳しい、あんたが言うのは甘えだ、世の中はそんなもんじゃないんだ、と言うことを言われた。居ても居ないような扱いだった。
誕生日を祝ってもらったことを、幼稚園の頃あたりまで覚えている。でもそれ以降は何もなかった。一体何が起こったんだろう。いつもお腹を空かせていた。母は、壊滅的に料理が出来なかった。レパートリーが極端に少なく、大人になってから久しぶりに帰ると、相変わらず同じメニューの同じ味でびっくりしたことがある。ご飯釜を通電させたまま、何日もご飯を放置するので、独特の変な臭いがする。思い返せば、母は焦げない食事というものを作ることが出来なかった。いつも恐ろしいほど大量で、焦げるか、ぞっとするほど興味の沸かない食べ物だったことを覚えている。
どこを出歩いているのか、母は夜にならないと帰って来なかった。それは今も変わらない。暗い家でずっと、弟と二人待っていた。家じゅうの水回りは物で溢れかえり、水が使えるところは無かった。シンクは常に食器で溢れていた。
思い出せば、女の子は何ができても無駄だということをずっと言っていた。どうせ男の子に負けるし、あんたが男だったら良かったのにね、ということを、事あるごとに言われていた。何かで賞をもらっても、そんな具合だった。母も祖父から、そんな風に言われたということを言っていた。だから、母は自分が扱われたように、私も扱っていたのだ。
母はこの地上のすべてに文句をつけているような人だった。ヒステリーはだんだんひどくなり、一度切れると止まらなくなり、物を投げるようになった。思い込みがものすごく強く、思い込みを真実のように言うので、長年信じていたことが、実際には何の根拠もなかったということもあった。
例えば、数十年前に行方不明になった父方の祖母について、原因は祖父が祖母に暴力をふるったからだ、と母は話していた。
ところが、その後に祖母の消息をたどり、ふとしたことから祖父の手紙を手に入れた。その文面が温かなものだったので、祖父が祖母に暴力をふるったのか、疑問に思った。それで、何を根拠に、祖父が祖母に暴力をふるったと言えるのか聞いてみた。
すると、「お義母さんが家を出る位の理由だから、暴力に違いない。」と母は言った。「暴力に違いないということと、暴力をふるった、は違うよね?暴力をふるったというのは、お母さんの思い込みなの?誰から聞いたとか、証拠があるというわけではないんだね?」と言うと、「出ていくぐらいだから、暴力くらいあるはずじゃない、あったはずよ!」と言って、堂々巡りで話にならなかった。
その他にも、奇行、思い込み、家事放棄、いくらでも話のネタは尽きない。
母は、お金というものを一切渡さなかった。高校生の時は、お金を渡さないばかりか、弁当も一度も作ってくれないので、自分で食べ物を探していたのを思い出す。中学生までは、給食があったからよかったのだが、母は子供が人間であるとは思いもしないといった具合だった。
困ることには、感情というものが理解できないようだった。
色々とあるけれども、とても書けるような内容ではない。
父の方も色々とあるが、同上。もっとひどいので、書けないとだけ書いておこう。