霊的形成のクラス(Spring 2017)16 -怒っても罪を犯すな
『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
悪魔に機会を与えないようにしなさい。』エペソ4:26-27
カウンセリング3回目。
いつの間に3回になったかと…?
夏、色々ありました。
バイトに2か月明け暮れて、その間に泊りがけの集会2回、引っ越し、胃が痛くなるような成績に関する歎願運動、ほっとしたと思ったら恩師の危篤。
一時帰国とお盆ラッシュに交じっての日本列島移動。
夏休みが終わってしまった。
色々やりたいことあったんですけど…。記事もほとんど更新しなかった。
取り組んでいることが個人的に深刻化してきて、書けなくなってきました。
とにかくしかし、書けることだけでも…。
第2セメスター、家族に関する問題からスピリチュアルディレクター(スピリチュアルフォーメーションの責任者)からカウンセリングに行くように勧められる…。
しかし時間的、金銭的余裕がないため、生返事で放置…。
スピリチュアルディレクターからの再三の催促、夏休みの間に行きます、と返事し更に放置。
次学期の授業の登録締め切りを前に、「あっ、そういえばカウンセリング行かないと行けないんだったか?今度行かなかかったら、さすがにディレクターに失望落胆されるだろうな…あぁ、困ったな、行くか…今ならバイト代が何とか入るしな…。」という動機で大学のカウンセリングセンターを初受診。
1回目―――3時間にわたるパーソナリティチェックのテストを受ける。あまりに長すぎて居眠りしながらも、何とか終了。確か560問近い質問に答える。幻覚が見えますか、自殺願望がありますか、自分にだけ聞こえる声がありますか、などの統合失調、うつ病を調べるような質問が混じっていた。
2回目―――90分の予定で、カウンセラーの助手のような方から家族関係や、相談内容についてのインタビューを受ける。
そして今日3回目。
霊的形成の授業で家族に関する課題を行ったとき、私はほとんどのことを思い出すことが出来なかった。
その後、家族についての記憶を少しずつ思い出した。ぞっとするような記憶の数々だった。
自分は…そのことが良く分からなくて、思い出したままレポートに書いた。
だから、スピリチュアルディレクターはカウンセリングに行くように言ったのだろう。
書ける範囲で…無いなぁ…無い。
とにもかくにも、最近分かってきたことは、悲しいかな、自分は虐待的な関係でしか愛情を知ることが出来なかったということ。
虐待的な状況に引っかかりやすいというのは、とにかく運が悪いのだろうが、虐待的な状況でしか、親の関心がなかった。
だから…非常に倒錯してるけれども、虐待的な関係に戻ろうとしてしまう。離れられない。
それしか、繋がっている部分が無かったから。
非常に悲しい。
カウンセラーは聞いた。
「両親に関して怒っていますか?」
「いや…怒ってはいません。怒ったらいけないから。「両親を敬いなさい」でしょ?聖書に…そう書いてあるから。クリスチャンは怒ったらいけない。親に…。それに、父はそうでなくても、病気でもう死にそうで、もしもそんな父に怒ったら、私は罪悪感まで感じそうです。」
「あなたは配慮のある人ですね。」
「そう言っていただけると嬉しいですが…。」
「沢山のクリスチャンが、それで苦しむのですが、怒っても良いのですよ。聖書に書いてあるのは、怒っても、罪を犯すなと言うことです。怒りによって、誰かを傷つけるのはいけません。怒ったから殴るとか、誰かに叫ぶとか、殺すとか、それは罪です。でも怒りは、私たちに与えられた感情です。悪いのは、怒っているのに、怒っていないかのように、感情を無視することです。私は大丈夫よ、何もないわというように。抑圧された怒りによって、私たちの内側は死んでいきます(dyeing)。神様は、私たちに死ぬようにと願ってはいません。生きるようにと願っています。」
「そうですか…でもその怒りは、一体どうすれば?」
「神様に正直にぶつけてみてください。」
「何と?」
「神様どうして、こんなことが私に起こったのですか!私はとても傷ついています、私は悲しいです!私には慰めと、ケアが必要です!!!って。」
「分かりました。」
ということで3回目のカウンセリングは終了。