ノスタル志士 – たまには昔の話でもしよう

くだらない話書こうと。
昔はよく、こういうくだらない話ばっかり書いてたよな。
目的志向のサイトになってから、こういうのは躊躇するようになったなぁ。

パスワード設定記事の中でまたくだらない話書きますわ。

毎日のお楽しみの時間、ゲーム実況動画。
最近見つけたお気に入りのゲーム実況者コンビ、「幕末志士」。
本当に面白い。

実況者の方々と世代が一緒なんですよ。
たぶん全く同じか、少し年下の人たちではないかと思うんですけど、30代だというからそんなに離れていない。
やっているゲームとか、ネタが昭和末期臭い。
いやーあったあった、こんなゲーム、あったあったこんな生活という数々。

実況しているゲームが古いので、昔からの実況者かと思ったら、数年前から始めたばかりのよう。
実況者は幕末志士と言うだけに、坂本さんと西郷さん。

坂本さんゲーム上手いんだけど、西郷さんが強すぎる。本当に強すぎる。
喋り担当の坂本さん、そしてあちこち情けない坂本さんをお世話している感の西郷さん、2人の関係性が面白い。

面白いことに、この西郷さんは自分でゲームを作る。
作ったゲームを坂本さんにプレイさせて遊ぶということをやっている。

そして、紹介している上の動画は、幼馴染の彼らの幼年時代を再現したRPG「ノスタル志士」。

坂本さんの家がとても貧しかった、ということをネタにしているRPGである。
見てみると、坂本さんも西郷さんも、裕福ではない、どちらかというと涙が出るような家庭環境だったことがわかる。

彼らはそれを、大人になった今、やりたかったゲームを存分に楽しみながら、振り返っている。

笑っているけれど、振り返ればとても辛い思い出。

彼らは北海道の出身だということで、私の出身地とは正反対の地域だけど、坂本さんの昔の話を聞きながら、自分の昔の様子を見ているようだった。

今、様々な人の話を聞いたり、ケアをしたりしながら思うことは、あぁ、少なからず人は苦労して生きているということ。
旅行に行ったり、家庭で家族みんなで食事が出来る家もあれば、家族との思いでどころか、家族すらもなく、毎日の食事もままならない子供たちも存在して、恥ずかしい思い出を作りながらも、毎日を生き抜いて、今があるというわけだ。

自分の昔の話でもしてみよう。

最近カウンセリングで分かったことがある。私は高いストレスに晒されると、食欲が無くなる。
3日も4日もろくに食べなくても、お腹が減ったという感覚が無い。
正確に言うと、お腹は減っている。でも、食べるということにつながらない。
お腹が空いたような気がして、スーパーに行くのだが、並んでいる食べ物を食べたいという気が起きず、
それを調理してどうこうしなければという思考回路も全く動かず、手ぶらで帰ることになる。

「食卓で恐怖を感じることが多かったのではないですか?」とカウンセラーに聞かれた。

聞くと動揺する音がある。テレビと食器の音だ。食卓は争いと口論の場所だった。
食事はぐちゃぐちゃでひっくり返され、食器が叩き落されては割れた。

私には「寂しい」という感情が無かった。
昔から。

一人でいることが多かったが、寂しいとはついぞ感じたことがない。

強いということではない。寂しいという感情そのものがよくわからない。

思い出した。両親の喧嘩が始まって、いつもの通りミシン台の下に隠れた。
寂しいという感情が無かった。

つながりを求めるよりも、一人の方が安全だった。
関わりを求めることは危険だということを、初めに学んだのだろう。

一人の方が、安全で快適だった。
私にとっては一人でいることが安心で、精神的な恐怖や混乱から逃れられる避難所だった。
だから、一人は寂しいことではなく、快適だった。

中学高校と、私は学校で誰とも食事を一緒にしたことがない。
カウンセラーになぜと言われて考えた。

単純に弁当が無かった。母は私に弁当が必要だと考えたことがあったのだろうか。
少しお金を渡された記憶があるが、確か1、2カ月に2、3千円だったと思う。
いつも100円くらいの、ビスケットのようなものを買って、お腹が空いたときは美術室で食べていた。
自分で白ご飯と梅干を詰めたことがあったような気もする。

何というのか、家はゴミ屋敷で、生きたいとうい気持ちも無かった。
食事作りが壊滅的に下手な母で、白米は黄色く、妙な臭いがした。
一体どうしてあんな臭いがするのだろう。

カウンセラーに対して私は
「さぁ…食べ物が無かったし、心配かけるのが嫌だった。
私がお昼ご飯を持っていなかったら、周りが心配するでしょう?
私が居たら、雰囲気が悪くなるじゃないですか。
人の楽しみを邪魔したくないし。」と答えた。

私が居たら、邪魔になる、この考えはいまだに自分の中で根深い。
人を不愉快にさせるようなことが嫌いで、トラブルの原因の自分が居なければ、万事解決すると思っている。

すごく無責任なのかもしれない。
自分の存在の大切さ、自分の存在が人にとって大切であるということが、自分の深いところでは実感として分からない。

でも…今、沢山の人に出会って本当に感謝している。
自分が考えてきた世界と、違う世界があるということを再確認している。

過去は変わらない、だが、過去に対する認識は変わる。
牧会ケアとカウンセリングの過程では、人間関係や、環境に対する認識を回復させていくプロセスのような気がしている。

クリスチャンに関わらず、沢山の人が、見えない重荷や、歪みを抱えて生きている。

関係ない人や出来事に、自分の怒りをぶつけて…心が、魂が痛んでいるというサインを出している。
パストラルケアと言うのは、心の痛みや弱さに向き合いながら、神の子としてのアイデンティティを回復させていく過程だと思う。

なんかとっても、みじめな日々も通ってきたけれど、今私は幸せに過ごしている。

嬉しいこととか、悲しいこととか、興味のあることとか、恐いこととか、自由に感じて、話して、発信して、いろんな人と笑って過ごしている。

多分それが、私にとって、生きているという感触。私が求めていた自由な世界。

神さまは、私にそんな自由を与えてくれた。

私が守るべきものは、自由だと思う。それが、自分が生きているという感触だから。