傍にいることーThe ministry of presence

トラウマについて授業。先生の講義が面白くて、楽しんでいる。

気を付けるべき”慰め”の言葉 (スライド和訳)
・「分かるわ」
・「大したことじゃないよ」
・「強いのだから大丈夫よ」「乗り越えられるって」
・「泣かないで」
・「神さまの御心/ご計画だったのよ」
・「これで済んで良かったよ」
・「それでも、~はあるじゃない」
・「最後には何とかなるって」

このスライドについて、この”慰め”の何が問題なのか議論した。学生からは感情を抑制、否定している、苦しんでいる人に感じる余地を与えていない、プロセスのためのスペースを与えていない、という意見が挙げられた。

また、霊的ケアに関する他の興味深い考えは。

・社会的サポートは、効果的にも逆効果にもなり得る
Social supports can be positive/negative. 支え方次第では、傷ついている人を回復させることにも、より傷つけることにもなるということ。

・貧弱な神義論
Poor theodicy. 過度に霊的(overly spiritual) 神学、聖書的ではあるが、神の心は伝わっていない神学、メッセージ。

次のような質問も興味深い。

ありがちはトラウマに、悲しみ対する対応(スライド和訳)
・なぜ我々クリスチャンは困難に直面したとき、課題に取り組む時間を与えずに、修正したり弁明したりするのだろうか?
・なぜ我々クリスチャンは、誰かが苦しんでいるとき、単純に悩んでいる人の傍にいることが難しいのか。

このあたりの答えは、以前スピリチュアルフォーメーションの記事の中で触れたことがある。
つまりは、聞いている側の不安、居心地の悪さを解消するために、話し手のプロセスを待たずに、解釈解決を与えようとしてしまうのだ。

上の気を付けるべき”慰め”の代わりに、効果的をされるのは「私は(あなたのために)ここにいるよ”I am here for you”」、あなたは一人じゃないよ、というメッセージだということだ。ヨブが友人たちに求めていたのは、修正や非難ではない。ただそこにいる、という慰めだったと。

先生は言った。
”Your ministry is presence, rather than fixing or teaching something. Tell them I am here for you and along side you.”
「あなたのミニストリーは傍にいること。教えたり、修正しようとすることではない。私はここにいるよ、そばにいるよ、と存在で示すことです。」

”The ministry of presence” とても素敵。
傍にいる、誰かが傍にいてくれるという恵み。
こんなに素敵な愛を、クリスチャンは届けられる。でも、残念なことに多くの人が、このミニストリーを行ってはいない。

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先生はもう一つ、面白いことを言っていた。
よく、伝道集会などで配られる救いに導くための小冊子や、チラシ。
あの論理に同意しかねる、と。仰っていたことを大まかにまとめると、
「あの論理は、あなたはキリストを信じると、混乱に満ちたあなたの人生が、秩序正しいものになり、問題は解決されると教えている。でも、カウンセリングの現場から言わせてもらおう、世界は相変わらず混乱に満ちている。変化はすぐには訪れない。世界は相変わらずめちゃくちゃだ。でも、その混乱の中で、あなたと共に神が共にいてくださるようになる。それが福音というものではないだろうか。」

私も、そう思う。
世界の果てで、混乱と矛盾に傷ついた魂を拾い集めている。
答えが慰めにならない人と共にいる。

でも不思議だ。
人は答えが無くても立ち上がっていく。
私がやることは、答えを与えることではない。
答えが無い人の傍にいることなのだ。

世界は相変わらず混乱に満ちている

でも、神はあなたと共にいる。