サポートレイズに対する考え方

今の、ソウルケアの活動を始めてから、収入面はどうしているかというと、サポートレイズをしています。宣教師が行う一般的な資金確保の方法で、教会、宣教団体、また個人的なサポーターから経済的な支援をいただいて、それを活動資金にするという方法です。
どんな仕事も大変ですが、サポートレイズも簡単なわけではありません。サポートレイズが得意だという方は、よほど才覚か、賜物がある方だけで、ほとんどの人にとっては宣教活動のかなり大変な部分です。
大学を卒業してから、教会だとか、宣教のエリアで働いてきた私にとって、雇われて働いた分だけ給与が入るという、働き方はうらやましいことでした。
教会は就労時間の長さに換算して給与を見るととんでもない低賃金労働です。まったく割に合う代物ではありません。コンビニでアルバイトするほうがよほど、もらえる給与が労働時間に比例して上昇するので、報われます。
ファンドレイズというのも、楽なことではありません。人にサポートをお願いするよりは、雇ってもらって自分で稼いだほうが、気が楽だと思います。
しかし、サポートレイズは少なくともキリスト教圏では、一種の伝統ある宣教方法なので、これに関する理解、ノウハウ、トレーニング、書籍、訓練団体といった、それなりの方法が構築されています。
世界各地の宣教地に赴いていく宣教師たちは、出発する前に、資金を調えるため、サポートレイズの訓練を受けます。
先日のリトリートを開催していた団体Mission Increaseは、サポートレイズのノウハウを教えることを使命とした団体です。
Mission Increase https://missionincrease.org/
私の場合

というわけで、私もセカンドレベルではサポートレイズから活動が始まりました。正直なところ、私はこの分野では落ちこぼれです。活動には関心があっても、金銭に無頓着であるため、新しい活動はどんどんやっても、資金集めにかける時間と努力が足りず、最初のころは本当に苦戦しました。いまでも出来は悪いのです。
今は、活動の認知度が上がり、大変ではありますが、定期的に個人セッションやクラスを提供できているので、以前よりは安心して働いています。
サポートレイズには一応型があるので、サポートレイズに慣れている教会、団体、個人は「あーあれだな」と察しがつきます。寄付や支援をするということが一般的なので、日本に比べると断然慣れている、といったところです。
出来の悪い私でしたが、セカンドレベルや、様々な方に支えられ、なんとかやってきました。その中で、時にこちらからしてみるとひどい難癖をつけられることがありました。今までのところ、難癖をつけるのは日本人です。アメリカの人からは一度も言われたことがありません。
多くは、アピールの方法(目標金額と達成度が示してある)のをみて、お金にがめつい、汚い、お金集めをしている、といった意見でした。
私が行っている方法は、実際のところ平均よりも控えめで、へたくそで、平均以上のことをしていません。一般的であり、アメリカの宣教団体の基準では、ありふれているものです。
他の方を見ていると、もっとアピールが上手で、わぁーこんな風にするものなのか、と感心することが多いです。
おそらく、日本人から見ると、伝道活動のために支援を募っているというのが、奇異に見えるのかもしれません。
それをお金儲けだなんだと、言われても、設けるほどの料金設定にもなっていませんし…考え方が違う、ということなのかもしれません。そのような意味で、日本人から、日本の教会から支援をもらうというのは非常に難しいことなのです。
教会では、古くは十分の一献金という習慣があるため、キリスト教圏では、捧げる、支援するという意識は、日本よりもはるかに根付いており、寄付すること、その使い道においても寛容です。
日本では、用途まで非常に細かい意見が差し挟まれます。もちろん、用途は宣教に関するものである必要がありますが、アメリカのほうでは宣教師自身やその家族のケアのために積極的に使いなさい、という指導があり、安心して利用することが出来ます。
サポートレイズに関しては、日本とアメリカで上のような温度差を感じることが多いです。
日本文化にとって宗教者というのが遠い存在で、人間として生活しているということが想像しがたいのだろうということ、そして、伝統的に宗教者に清貧を求め、どうやら生活保護以下の収入でも生活していけると思っていることが起因しているのではないかと思います。
お金にがめつい、宗教者の皮をかぶった詐欺師がいるのは確かですが、多くはそうではありません。
私はこう言いたいのです。もちろん、自分の生活のためにも、経済は安定して過ごすことが出来る分が欲しい。だが、それだけではなく、私だけに限らず、また次の働き人が来る時代が来るだろう。
神の人は大切にするべきだ。人を人として扱わず、神の働き人を粗末にする教会、個人が祝福されることはない。神は自分の働き人を大切にしないところに、大切な働き人を送らない。警告ののち、徐々に質の悪い働き人が送られ、やがて、自分たちが行ったことの報いは自分たちに帰ってくるだろう。
働き人は大切にすること。その祝福は有り余って、教会に、その人に注がれる。
一部の有害な伝道者を除いて、基本的に、神のために働いている奉仕者には多くの支援を与えてあげるのが良いと思っています。自分が支えられる側ではなく、友人の宣教師たちを支える時がありますが、できる限りのことはしてあげたいと思っています。
宣教活動、伝道活動に従事している人は、それぞれのところで苦労しています。宣教師、伝道者には、寛容に、多く捧げる。それができることは、神からの恵みです。