先生と私の最後の日 3 – ひらひら

前回、このシリーズを書いたのは2017年、先生が亡くなられてから2ヶ月あまりのことだった。
今は2025年だから、7年が過ぎた。7年!!!!
正直になところ、多くの詳細はもう覚えていない。でも、この続きを書かないといけないと、折に触れて思っていた。
何故か、思い出された。
日本に滞在する日程は10日ほどの予定だった。
その間私はほとんど先生のお見舞いに行った。1回だけ、弟に会いに行った。
本当に感謝なことに、Kさんと娘さんの計らいで、ずっと娘さんのお家に滞在させてもらった。
朝起きては、許される限りベットに付き添っていた。
最初先生は、私のことが分かっても、時々名前を思い出すことが出来なかったが、日が経つにつれて思い出してくれたようだった。
アメリカに居るA先生(國光先生にお世話になった先生)から伝言メッセージを預かってきていたので、それを再生した。
A先生は、天国でお会いしましょう、というようなことを吹き込まれていたのだが、國光先生はその声を聞いて驚いたような表情をされていた。
前後の記憶が曖昧なのだが「え、もう私は終わりなんですか?」というような、ことを話していたことがあった。
意識が朦朧としているのだと思うが、よく、昔の記憶を思い出しているらしく、「それでは集会を始めましょう、あなた、そこにちゃんと座って」など仰っていた。
「聖書を取ってもらえますか?」
や、讃美歌を歌い出す時があった。
聖徒って、こういうもんなのだろうか、すごいなぁと思った。
私は意識朦朧として、こんなふうに言えるんだろうか?誰かが財布を取ったとか、いうんじゃなかろうか、と思い、改めて先生が一生を通じて、信仰生活に集中して生涯を過ごして来られたのだということを深く心に留めた。
視力は、私がまだ日本にいたときから、緑内障のためにかなり悪くなっておられた。
私が病院に行ってやることは、先生の手にはめられた、ミトン?手袋を外すことだった。
点滴などを引き抜かないためにつけられているのだと思うし、来客の立場では、本来外してはいけないものだが、ずっと私が見ているし、暴れて引き抜くということも様子を見ていてなさそうだったので、行ったらまず一番に外していた。
手の自由もなく、なんだか見ていて辛かったからだ。
手袋を外すと、先生は手を開いたり握ったりし、静かに自分の頬を撫でたりしていた。
ひらひらと手をかざして、ゆっくり自分の手を片手ずつさすって、手の感触を確かめていた。
意識は朦朧としていたが、認知などではなく、かなりはっきりしていたのではないかと思う。
静かにウトウトして眠っていることも多かった。
時々、私のことがはっきりと分かるようだった。先生の中での私の記憶は、アメリカに行っている、という状態で、毎回「帰ってきましたよ」というと「あらまぁ!」と驚いてくれた。